小説と経験値
よく「良い小説を書くには豊かな人生経験が必要だ」とか「あらゆる創作物は作者の経験から生まれる」とかいう言説がある。
これに関して長年考えてきた。
結論からいえば、まあそうなんだろうな、と思う。
いくらセンスがあっても、空想力があっても、技術があっても、その土台となる経験がないと文章に説得力や強度が出ない。
だから人生経験は必要です!
などと言われると、違和感や反発の気持ちを持つ人は多いと思う。
僕もそうだった。
25歳の時、芸術家や建築家と共に飛騨の山奥に数日間監禁されたことがある(この話はまたいつか)。
その際、当時おそらく50歳くらいと思われる、仙人のような陶芸家に出会った。彼は新人賞を目指しているという僕を鼻で笑い、新人賞なんてのは20歳までに獲るもんだよ、君はもう25歳なんだろ、じゃあもう世界一周した方がいいよ。結果出せてないってことは君が何も無いつまらない人間だってことだよ。でも世界一周すれば新人賞獲れるんじゃない? と言った。
事実、その人は10代で賞を獲り、それから世俗を離れて山の中で一人で作品を作り続けている。結果を出している大先輩のその言葉に僕はぐうの音も出ず、というか、当時の僕の感情を正確に再現するなら「殺したろか」と思ったのだった。
自分には元々何も無く、そこに何か目立った経験がないと良い小説が書けない、という経験論は当時の僕が許せない思想だった。
戦争にも行ってないくせに。貧乏を経験したこともないくせに。ビートルズも知らないくせに。
そんなありがちなただの年長者のマウンティングのように思った。
そして20年以上の歳月が流れ、その陶芸家と同じくらいの年齢になった僕は思う。
もし今の僕が、かつての25歳の僕に出会ったら。
たぶん、同じことを言うと思うのだ。
世界一周すればいいんじゃない?
正確に言えば、世界一周的な、何か目立ったネタを見つけるのが「手っ取り早い」ということである。それはイージーで短絡的で広告的だが、結構効果があると思うし、それでうまくいった例もたくさんあるはずだ。
だから簡単なアドバイスを求められれば、僕はきっと簡単にそう言うだろう。
しかし文学が本来扱う領域はもっと深層にあるから、本当は世界一周ではなく、むしろ、自分の最奥を目指した方がいい。
そこには必ずその人固有の生い立ちがあり、偏った価値観があり、歪んだ世界像がある。
それこそが「経験」と呼ばれるものであり、言い換えれば、それはその人だけが抱える「痛み」である。
幸福な経験はその人の内部で溶けていくが、「痛み」はいつまで経っても溶けず、冷たい石のように身体に残る。初めはそんなものは無かったはずで、それがいつどうやって生まれたのかは分からない。そういったものが、文学の中心となり得る、その人固有の痛みの経験である。
固有であるということは、孤独であるということだ。
25歳の僕はその孤独感ゆえに、痛い、ということをただひたすら叫んでいたように思う。自分の言葉を聞いて欲しい、共感して欲しいと思っていた。
自分には何も無いだなんて思えなかった。そこには確かに何かがあったからだ。
それは事実として合っていたが、方法が間違っていた。
僕がやるべきだったのは、痛い痛いと強く叫ぶことではなく、その痛みの根幹に目を向け、それをどうやったら他人に伝えられるかを冷静に考えることだった。
この22年間で僕は仕事や交友関係や結婚、育児などで得た数多くの表層的な経験を小説に付与させていった。それは世界一周に匹敵するほどの量だ。
そんな現在の自分と比べれば、当時の自分など何も持っていないに等しい。
けれど50歳の陶芸家に「お前には何もない」と言われた時、燃え上がるような怒りに支配された自分のことを僕は褒めてあげたいと思う。
「何もない」と言われても、どれほど自信を失っても、僕は自分の中心にある痛みを手放さなかった。
これだけは自分のものだと信じていたからだ。
人がふと思い立って筆を執った時、どうしようもない気持ちで何か文章でも書いてみようと思った時、その人が小説を書くための「痛み=経験」はもう手中にあると僕は思う。その時、痛みはまだ自覚されていないかも知れない。それでも筆を手に取るということは、きっとそういうことだ。
「だからあとは世界旅行でもして、のんびりテーマを探せばいいと思うよ」
先のアドバイスを伝えたあと、今の僕ならそう付け加えるだろう。
ひょっとしたら陶芸家のあの人も、そんな意味で言ってくれてたんだろうか。
いやあ、違うな。きっと…