日記 2024.7.16
さて何か書こうと思うものの、タイトルを「難しいことから離れる」としたり「書くことは肯定の作業」としたり「ダブルスタンダード」としたりして、ああ、違うんだよな、そういうことをやりたいわけじゃないのだと、書いては消し、書いては消し、結局「日記」という形が書けると思って、日記。
言葉は無限に内側からあふれ返っている。他の人はどうだか知らないが僕に関しては常に胸のうちに言葉が渦巻き、外に出たがっている。それをすべて吐き出すと誰も相手してくれなくなるから僕は言葉を抱えている。するとやがてそれらは落ち着いて、底に沈んでいく。次の暴れる機会を窺いながら。
そんな感じで、エアコンの効いた室内で、アイスコーヒーを飲みながらこれを書いている。あと一時間で歯医者だ。家には誰もいない。二時間後には妻子が帰ってきて、途中になっている『RRR』(2回目)をみんなで最後まで観るだろう。そして夕食を作るタイミングを失い、エンゲル係数を気にしながらも、外食に行ってしまうだろう。
賞を頂き、僕の中で明確に変わったところがある。これは僕だけではなく、デビューした全員がこのタームに入るのだと思うが、それは「継続」が今後の目標になるということだ。まだ誰も読んだことのない物語を書くとか、まだ見ぬ文学の地平を切り開いて世間に衝撃を与えるとか、そういうことではなく、今のこの状態をいかにして継続していくか、という考え方になる。もちろんその方法の一つとして、まだ見ぬ文学の地平を切り開いて何か大きな賞をもらう、という形も考えられるが、それは目的の一つの手段であって、絶対条件ではない。僕はまだ見ぬ文学の地平を能動的に切り開こうという野心はない。たまたま切り開いたと勘違いされたら面白いな、くらいのもんである。僕が切り開こうが切り開くまいが、本質的にはそれは「継続」とは関係のないことのように思うし、切り開くことを主眼に置いてしまったら、ひょっとすると継続することは逆に難しくなるかもしれない。
単純に「継続」というのはつまり仕事をもらい続けることであり、仕事をもらうためには「良い小説」を書き続けることであるが、さあ、良いって何なのか。良い小説? それは誰にとっての「良い」ということなのだろう? 良いか悪いか、優れているか劣っているか、その基準も結局、まだ見ぬ文学の地平的文脈と同じことになり、自身の中心に据えるには非常に心許ない。
僕の中心にある継続。それはつまり、妻子と途中になっていた『RRR』の続きを観るということであり、その辺のチェーン店に外食に行くということである。そこにすべての物事の中心があると僕は思っている。そこを無視して文学などは成立し得ない。そういう意味では僕は徹底的に形而下の信奉者なのかもしれない。サイゼに家族で行くこと。高校生のバイトが解凍したチルドの飯をナイフとフォークで食うこと。間違い探しをすること。隣の家族の話し声に聞き耳を立てること。どこかで夫婦げんかが始まること。赤子の泣き声。声高に語られる偏った思想。愚かさ。時々、本当に美味しいものを食べる。時代の最先端に触れる。帰り道、親から鬱陶しい電話を受けること。カエルの鳴き声を聞くこと。道の真ん中で動かない老人。土のにおい。どこかから漂うコーヒーの香り。継続するということ。世間に埋没した一人の人間として、埋没したまま、継続していくということ。
だ。
運よく一度世間に頭を出すことができた僕は、入場券をもらって、晴れて再び埋没していくことができる。埋没した泥の中には書くためのすべてのものが揃っている。
頭上の方から語られる文学は苦手だ。
僕の物語は雨上がりの足下に落ちている、濡れた枯れ葉の中に光るコインのようなものでありたい。
泥の中から出てくるそのコインは誰でも拾うことができる。
聖者でも、愚者でも。
時間が来た。歯医者に行ってきます。