私を書くということ
以前、好書好日さんの「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」というコンテンツに載せて頂いたことがあるが、そのインタビュアーでありライターである清繭子さんの初エッセイ『夢みるかかとにご飯つぶ』が出版されたので拝読した。
(下記はその時のインタビュー記事)
小説家になりたい清さんが新人作家たちにインタビューを敢行するという、このかつてないおもしろ企画は特に小説家を目指す者にとっては非常に面白くためになり、もちろん僕も以前から愛読していたのだが、いつか自分もここに…と思っていたら、あっさりと実現してしまって今でもなんだか夢のようだ。
その清さんのエッセイ本を一読し、彼女のエッセイストとしての特徴はひとえに「私を語る」という能力だなあと改めて思った。件の企画記事でもブログでも、その能力によって語られる「私」がとても魅力的で惹きつけられるのだ。
これは簡単なようで非常に難しい。僕などはひっくり返ってもできない。「私」を語る際はその水面下で自意識と格闘することになるが、その人間の自意識こそが、近代から現代に至るまでの(ポストなんちゃらを経た後でさえ)、おそらく最も屈強な敵であり、現代においてなお最大のテーマではないかと思う。
「私」には好きなところと嫌いなところがある。
自慢したいことと、隠しておきたいところがある。
そして人が知りたいのは決まって後者である。
後者を語る際、小説には「私について隠しておきたいこと」を顕在化させる方法がある。ゆえに作家は物語の形式を借りてその秘すべき部分を語ろうとする。(というか、自然に含まれていく)
ところがエッセイではそれができない。
語り手=作者、という自明のルールにより、形式的に、語る一言一言が言い逃れできない「事実」と認識され、事実と認識されますよーという客観的現象が自意識にフィードバックされ続ける。
だから僕のこのブログもそうであるが、普通にエッセイを書くと、作者の書きたいことしか含まれない。
さて清さんの『夢みるかかとにご飯つぶ』であるが、それはもう、普通とは逆である。
小説家になりたいけどなれない私、チャンスを掴みかけたのにものにできなかった私、作家になれない言い訳を探し、新人作家に子供がいるかどうかをチェックしてしまう私…
そんな感じで普通なら書きたくない、隠しておきたいはずのエピソードが次々に出てくる。
そういうものは読者の心を惹きつけ、僕のような者の共感を呼ぶが、これが自分にできるか? と聞かれれば、きっと僕はできない。
「小説家になりたい」は言えるだろう。
でも「なれない」をエッセイで言える人がいるだろうか?
なぜ彼女は言えてしまえるのだろうか。
一つ面白いと思うのは、彼女は決して幇間を演じているわけではないということだ。
彼女自身も書いているように「自虐的」ではなく、あくまで尊厳を保った美しい個体として自身を捉えている。
このバランス感覚はすごいと思う。
人柄、と言いそうになる。
昔、「人柄」という言葉でいろんな説明を済ませることが自分の中で流行っていた。
それはあながち間違いではないのだと思う。
人は、人柄で好まれ、人柄で嫌われる。
人は人柄で作品をつくる。
つまり、「私」が作品なのだ。
人にはそれぞれの「私」があるから、どんな人でも作品をつくることは可能だ。
ただ、「私」を正確に扱うことは難しい。
だからつい「私」以外のところで勝負しようとする。するとその借り物を使った作品は、他の純粋な「私」に負ける。
小説家になりたいはずの清さんが先にエッセイストとしてデビューされたのは、「私」を描く方法としてまずエッセイという形式が一番合っていたからなんじゃないかと思う。
映画だろうが、音楽だろうが、既存の文脈のエピゴーネンだろうが、「私」が入った作品は強いし、それだけで価値がある。
単純に秘すべき部分をさらけ出すことに意義や価値があるのではない。
さらけ出した「私」の中に読者が自分を発見し、他者であったはずの「私」と「私」が混ざり合う、
そこに表現行為の価値があるのだ。
デビュー前の僕という「私」は、清さんの「私」に出会い、安心したり、共感したりしながら、救われてきたのだと思う。
その節は大変お世話になりました。改めて御礼申し上げます。
そして僕もまた、現在準備している受賞後第一作、そしてその次の作品と、僕は僕という「私」を使って、まだ見ぬ誰かの「私」に出会いたいと、そればかりを切に願っている。