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人間の想像力について

先ほどTwitterでこういう趣旨の投稿をした。

ようするにこれは告知に駅名または市町村名しか書かない人への純然たる文句である。
が、君、作家なんだからもうちょっとさ、この件に関して何か言えない? これ文句として普通すぎません?
と、僕を常に監視しているもう一人の僕(ポンコツ)が語りかけてきたので、こうしてあらためて筆を執った次第である。

人間の想像力というものに関しては本当に個人差があると常々感じているが、それは持って生まれたものではなく、その人の体験に依るところが大きい。
勝手な想像だが、おそらく先のやり玉に挙げた「自主イベントを開催してそれをTwitterで告知する人」はある程度教養のある30代~50代の都市生活者であり、付き合う人間もみな都市生活者で、あらゆる出来事が都市の中で発生するような生活をしている(という僕の想像力)。
そんな体験を繰り返す人が「下松駅」という駅名を使う時、そこに地方生活者のイメージはない。悪気があるわけではなく、普通に忘れているか、最初から知らないのだ。人間はそんなもんである。

たとえば反対に地方の人間が「東京モン」という時、あるいは「ガイジン」と呼ぶ時もまた、そこには体験と想像力の欠如がある。
その人には東京の友達がいない。東京に住んだこともない。海外の友達もいない。だから目の前の人間がどういう人なのか、何を食べて何を考えているのか、想像もできない。それが体験と想像力の欠如なのだが、大事なのは、それは差別感情よりも先にくるということだ。
あらゆる差別はまず「未知」から生まれる。その体験の不足を補うものは想像力だが、それがその人に欠けていると、情報の不足はすぐに恐れになり、忌避や嫌悪に固定化される。

(余談だが僕はある人に会って「恐怖で後ずさった」という経験がある。比喩ではなく、人は恐怖に支配された時、本当に後ずさるのだ。しかし今思えばその恐怖とは「未知」からくるものであった。その人のことを少しでも知っていたらそこまでの恐怖は感じなかっただろうと思う。しかし恐怖は当然、集団においては排除の対象となる)

2ヶ月ほど暮らしたイギリスから帰ってきた日、僕はこの国の住民がほぼ全員日本人であることを改めて発見し、興奮と気持ち悪さを同時に感じた。そしてその同じ日に、スーパーで買い物客同士の小競り合いを見た。どちらも日本人同士だった。19歳のその時に感じたとてつもない悲しさを僕は一生忘れることはできない。
数年の東京暮らしから大阪に戻った時も似たような感覚に陥った。皆大阪弁で喋っている、と衝撃を受けた。この二つの体験こそ、僕が小説に託しているものでもある。

想像力はこのような体験、引っ越しや留学や転勤や転職などを通じて育まれる。
それは自分の馴染んだ環境から外に出た者だけが少しずつ育てていけるものなのだ。そうした体験から得られる想像力はその人の中でひとりでに育ち、やがてその人の「未知」をもカバーしてくれるものになる。
小説、物語体験とは、その人の「未知」を補うものだ。

小説を読むことは他人の人生の一部を生きることである。
それは市町村を越え、都道府県をまたぎ、国境を越えて宗教すらも超越してしまう。
ある人が都内のカフェで「下松駅」と告知する時、それを目にするのは山口県の漁村で自宅出産の赤子を産んだばかりの母親かもしれない。
ある国の人間を激しく憎む時、その人間が住むアパートの隣人はこちらを深く愛してくれているかもしれない。
山口県の漁村や海外に行ってそこで人間関係を築いた体験のある人ならその可能性のことがいつも頭にあるし、そこから派生して新潟県の農家の次男坊のことや、別の国の別の時代の人々のことまで思いを馳せることができるかもしれない。
しかしそれはなかなか難しい。
そんな人たちのために物語がある。
物語は読んだ者の体験を補い、想像力を補強してくれる。

想像力があれば人は人に優しくすることができる。それは差別を無くし、無駄な争いを防ぐことのできる唯一のものだと僕は信じている。
互いの想像力は戦争の抑止力となるのだ。
僕が「下松駅」という、たったそれだけのシンプルな表記に感じたのは、人の無自覚な冷たさであった。

category:ブログ  |  2025.03.06

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