マスク・オブ・ザ・ムーン
どうも近頃の世の中は煙草吸うにも大変でさ、一人暮らしなんだから自分の部屋でぷかぷか吸うじゃん普通、でもそれやると敷金? 礼金? みたいなやつさ、戻ってこねえの。もうまじでびっくりぽん。とイー○ンが言うので「ビッくらポンな」とこれまで500回くらい行ってきた訂正を入れながら俺はイー○ンにインスタントコーヒーを煎れる。イー○ンは次の引っ越しに充てようとしていた敷金だか礼金だかを大家に盗られてどうしようもなくて俺の部屋に転がり込んできたのだが、そういう話をしながら俺の部屋でぷかぷか煙草を吹かしているそのいかれた脳みそのおかげでいつまでもバイトが決まらず、この賃貸マンションの8畳ほどのリビングの壁紙が日に日に黄ばんでいくのを俺は、俺は、まあ、なんだろ、なぜかだらしなく許容しているのだった。
イー○ンがなぜイー○ンと呼ばれるようになったのかは誰も知らない。顔が似てるとか髪型が完全一致しているとか青い小鳥を飼っているとかひどいX脚だとかいろいろな説はあるが、イー○ンは大学卒業後、就職に失敗し、引っ越しにも失敗し、今は俺の部屋に平然と居座ってしまっていて、その態度だけはイー○ン級ですわと俺は感心せずにはいられない(ちなみに青い小鳥は途中で逃げた)。
お前なんで焦んないの? バカなの? と俺は朝から一人スマブラをしているイー○ンに何度か訊いたことがある。彼の答えは決まっていた。
「月が青くなる世の中ですよ。働いたら負けかなと思ってる」
俺たちが大学を卒業して間もなく、月が青くなった。その瞬間は誰も見たことがなく、従って原因も不明だった。俺たちはそれをなぜか自然なことのように受け入れていた。なぜならイー○ンも俺も最初に入った会社で酷い目に遭い、それどころではなかったからだ。世間はどうだっただろうか。NASAが騒ぎ、世界中の天体観測設備はフル稼働しただろうか。数ヶ月後、その現象は純粋にたんなる色の変化だけだという結論に落ち着いた。月の寿命が縮んだわけでも、何らかの光線が照射され始めたわけでもなく、月明かりの色がキモいということ以外は人々の暮らしに実害はなかった。なのでそれから一年経ち、二年経つうち、誰もが興味を失っていった。
月が青かろうが黄色だろうが関係ない、お前家賃半分払えよ、あと部屋ん中で煙草吸うなと俺が言うと、二人がけソファに寝転がったイー○ンはくわえ煙草でうぇいと呟き、うちが月をもっかい黄色に染めてやんよと真っ黄色になった歯を見せてギャルピするので、おかしいと思いよく見るとソファの下に俺が買って冷やしておいたビールの空き缶が二つとも転がっててお前まじふざけんな、と俺は思わずスマブラ参戦して酔っ払いの無職が操るベヨ姐さんに十敗した。
イー○ンは元々ここまでダメなやつじゃなかったと思う。大学時代はどっちかというと陽キャだったし友達もめちゃ多くてかわいい彼女もいて鬼のように予定を入れて、まるで世間を泳ぎ続けていないと死んでしまうサメのようなやつだった。それがいつからかこんな風になってしまった。今のイー○ンはサメどころか水族館の底の方でちょっと斜めったまま浮いてるフグみたいだ。イー○ンが変わったのはいつからだろう。大学を出る前だろうか。月が青くなった頃だろうか。会社を半年で辞め、吸う煙草の本数が増え、歯が黄色くなった頃だろうか。
今も俺のソファから下半身が落ちかけてちょっと斜めってるイー○ンの唯一の習慣は、夜中にこのマンションの屋上に出て、フェンス越しの夜景を眺めながらビールを飲み、煙草を吸うことだ。その儀式めいた習慣にはなるべく俺も付き合うようにしている。今時珍しく屋上へ自由に出られるこのマンションの善意が災いし、最初の自殺者を出してしまうと俺が申し訳ないからだ。
屋上へ出たイー○ンはキャンプ用の軽い折り畳み椅子を広げて座り、足下の黒ずんだコンクリートにビール缶を置き、その隣に携帯灰皿を並べる。俺も同じように椅子に座り、イー○ンがビール缶を地面に置く時の、アルミニウムと砂利の擦れ合う小さな音を耳にする。そこそこ都市部にあるはずの俺たちの街は、なぜか夜になると不思議なほど静まりかえり、日中には聞こえない音がよく耳に届く。
イー○ンは缶ビールのプルタブを開け、冷えたビールを一口飲む。でも、プハァーッとか、クゥーッとかは言わない。イー○ンはただ黙って一口飲み、黙って煙草に火を点ける。俺はそのイー○ンの横顔を眺めるが、その時の彼がどこを見ているのか、照明の無い夜中の屋上では分からない。真っ暗な空のどこかで風が吹き、見えない煙草の煙をさらっていく。近くで煙草の葉の燃える音がする。そのうち俺もプルタブに指をかける。かしゅ、と乾いた音がする。
「あ、またいた」
ふとイー○ンが呟き、俺はその方角に目をやった。
「やっぱ女の子じゃん」
二週間ほど前から、俺たちはこの同じ時間に向かいのマンションのベランダに現れる人影を見つけていた。べつに向かいのマンションを監視していたわけじゃない。ある日急に、一つの部屋が光り始めたのだ。照明を変えたのか、増やしたのか、深夜の音の無い風景の中で、そのマンションの部屋は冗談のように光り輝き、俺とイー○ンの視線を釘付けにした。
部屋が黄金のように光り始めるのは決まってこの時間帯だった。人影は完全に逆光でシルエットになっていて、一体どんな人なのか、子供ではないし、年寄りでもない気がしていたのだが、今日、その人は風呂上がりのようで、バスタオルを身体にぴったり巻き付け、頭にもタオルを巻き、火照った身体を冷ますように、ベランダの壁に上半身を預けているのだった。
「なんかさあ、こういうの知ってる気がする」
そう呟くイー○ンを見ると、手元でスマホのカメラを無言で起動していたので、俺はそのスマホを取り上げて言った。
「こういうのって?」
「なんか昔話になかった? こういうの」
その女の子らしき人影は空を見上げていた。そういえば昨日も彼女はそうしていたように思う。俺たちも釣られて空を見たが、そこには青い月しかなかった。
「分かった、月に帰りたいんだ。んで宇宙船壊れてんの。びんぼーで直せないの」
「金あんだろ、向かいのマンション分譲だぞ」
「バッカ分譲買うくらいの金で宇宙船直せるかよ、億千万だよ」
その夜は薄曇りで億千万の星の輝きは見えなかった。ただ青い月だけが、薄いフィルターの向こうにぼんやりと霞んでいて、その感じは俺たちに途方もない距離を思わせた。シルエットの女の子は光の洪水の中でその月を見つめ、動かなかった。
「昔話だとこれからどうなるんだっけ。たしかなんか集めんだよね。7つのアイテム的なやつ」
その設定を思い出そうとした俺の鼻先にふと煙草の臭いが漂い、俺は現実に引き戻された。イー○ンを振り返る彼はもう女の子を見てはおらず、缶ビールを傾けながら、俺たちの四方に張り巡らされた頑丈なフェンスの向こうにある暗がりを眺めていた。それは見慣れた闇の色だった。それはどこまでも続いていて、女の子の部屋からあふれ出てくる光でさえその奥の方までは届いていなかった。気味が悪いほどの静寂が夜の底に溜まっていて、そっか、光には音が無いのか、と俺は当たり前のことを思った。
暗闇の頭上で、何かが羽ばたいた音がした。反射的に辺りを見回したが鳥の姿は見えなかった。あの時の青い小鳥が戻ってきたのだろうか。まさか。小鳥は月に飛んでいった、とイー○ンは言っていた。だから月が青くなったんだよきっと。
あのさあ、お前の小鳥、と俺が言いかけ、ふと彼女に視線を戻したその時だった。彼女が右手を挙げ、突然こっちに向かって手を振ったのだ。俺は慌ててイー○ンの肩を光速で叩いた。やば、やばいおい、ちょ、こっち見てるって! 女の子は何度か手を振った後、今度はよく分からない別の動きをし始めた。俺もイー○ンも食い入るようにそれを見た。彼女は手首を折り、腕を上げ下げして、ボディランゲージで俺たちに何かを伝えようとしていた。一連の動作のあと、分かった? というような間があり、俺たちが何も答えずにいると、彼女はもう一度同じ動きをした。けれど俺たちには彼女の言いたいことがどうしても分からなかった。何度かそれを繰り返したあと、彼女は小さく手を振って部屋の中に戻っていってしまった。光が消え、辺りは本当の暗闇に包まれた。
それから何日経っても彼女は姿を現さなかった。それどころか、部屋が光ることも無くなっていた。女の子がいなくなってから一週間後、イー○ンはようやく重い腰を上げてバイトの面接に向かい、普通に落とされた。俺は俺でギリ死なない程度に会社にこき使われ、不毛な日々を消費して消耗していた。
毎日深夜になると俺とイー○ンは屋上へ上りビールを飲んだ。この場所で思い出話だけはしないでおこうと二人で誓ったことも忘れ、俺たちは学生時代の楽しい思い出を語り合った。話していくうちに懐かしい顔がいくつも思い出され、そうだ同窓会しよ、久々にさあ、積もる話が積もってんじゃん、とはしゃいで言った瞬間、その日一番最悪な気分になった。俺もイー○ンも何一つ積もっていなかった。みんなはどこかに散り散りに消えてしまった。なあ、と俺は言った。ここで飲むの、もうやめねえ? するとイー○ンは黙って煙草を吸い、月を見上げて言った。俺、あれから考えたんだけどさ。女の子のこと。
俺はイー○ンの横顔を見た。
あん時さ、なんで叫ばなかったんだろって。こんな静かなんだからさ、でっかい声出せば絶対聞こえたじゃん。なんで俺たち黙ってたんだろ。
椅子から立ち上がったイー○ンの安物のサンダルがコンクリートの砂を踏みしめ、ちゃり、という音が鳴った。あの子、もう帰れたのかな、と俺は訊いてみた。イー○ンは言った。帰ったよ。
「億千万稼いで?」
「NISAで」
「NISAはそんな儲からんやろ」
「じゃNASAで」
その時、はるか上空で強い風が吹き、空の透明度が上がった。俺たちの貧相なキャンプ椅子に影が生まれ、満月の青い光が全身に届いた。俺たちは黙って空を見上げた。夜空に浮かぶまん丸の青い球体を見つめながら、幸せになれよ、と俺は祈った。君だけでも、どうか幸せに。
俺の隣で同じように空を見ていたイー○ンが「あのさあ」と呟いた。その口調にどこかためらいのようなものを感じ、俺は眉をひそめてイー○ンを見た。イー○ンはしばらく黙った後、間違ってたらごめんだけど、と断りを入れ、それから言った。
「あっちが地球じゃねえの?」
数日後、俺は会社を辞めた。イー○ンは相変わらず俺の部屋で朝から晩までスマブラをやっている。無職二人になった部屋の家賃を一体誰が払うのかは知らない。ビールも気軽に買えなくなった俺たちは屋上へ出ることをやめ、その代わりに、深夜のベランダで気分転換することを覚えた。酒が無いなら無いで何とかなるもんだ。ベランダにもたれて煙草をぷかぷか吹かすイー○ンに俺はこれからのことを喋った。どの話も荒唐無稽だった。非現実で夢物語で億千万だった。でも俺はなんかそのことを誰かに伝えたいと思った。イー○ンもその話に相槌を打ってくれた。
そして今夜、熱っぽく話す俺の背後で、イー○ンがローテーブルの下に放り投げたままのSwitchのコントローラーが光り始めているのを俺は目撃した。今、その光は部屋のあちこちに、お祈りメールを受け取った直後に破られゴミ箱に捨てられた履歴書や、俺が退職祝いに貰ったテンプレだらけの寄せ書きや、初めてのチャーハンで塩分量をミスって食えないままフライパンの上で冷えて固まった米の一粒一粒に伝播し、それらを次々に輝かせていく。それはいつか俺たちが見ていたはずの黄金色の光だ。
俺の隣で斜めったフグの物真似をするイー○ンは、そのことにまだ気付いていない。
了